悪魔の子
ヒグチアイ
🩵 世界は残酷だ それでも君を愛すよ 🏛 ─────˙˚ 𓆩 ✞ 𓆪 ˚˙────── 第5部〖カインとアベルと3番目の天使〗 Ⅳ. 愛してる 耳元でひゅうひゅうと風が泣いている。柔い翼に全身を押しつけて、カインは上空から村を見下ろしていた。 「もう数分で死刑場の丘に着く。大丈夫だよ、きっと間に合う」 カインを乗せているのは、天使の姿になったファエル。まさか自分の妻がこの世の者ではなかったなんて、今でも信じられない。半分夢を見ているような気分だった。けれど同時に、驚くほど冷静な自分もいた。 ‧✧̣̥̇‧ 「お前は、俺たちを監視していたのか? 悪しき魂を持つ俺たちを、罰するためにやって来たのか?」 異形の妻を目にしそう問うたカインを、ファエルはきっぱりと否定した。そして、震えるカインを両腕と翼でつつみこむように抱きしめた。 「違うよ。逆なんだ。わたしはあの日、往来で何人もの人間に見放された。わたしに声をかけ、この世界で生きていても良いと受け入れてくれたのは、きみたち兄弟だけだった。わたしは、世界で一番優しい人たちのところにやって来ただけだよ」 「優しい……そんなわけ、あるか。アベルがああなってしまったのは、全部俺のせいなんだ。俺は、お前をアベルに取られるのが怖くて、先回りをしてアベルの結婚相手を見つけたんだよ」 カインの身体から少しずつ力が抜けていく。翼の下で、彼は倒れ込むようにくずおれた。 「俺の紹介なら断れないと分かっていて、俺はあいつの気持ちに蓋をして封じ込めた。もちろん、最初は純粋に心配の気持ちで動いていたつもりだった。でもいつしか、アベルとお前を引き離すことばかり考えるようになった。最低な兄だ」 唇を噛み締め鋭く吐き出したカインの頬に、ファエルはそっと指を這わせた。 「きみたち兄弟はよく似ている。感情を自制出来ず堕ちたのに、悪にもなりきれず後悔をしている。あまりにも愚かだ。……けれど、責任を取ろうと藻掻くきみたちは実直な人間でもある。そんなきみたちを、わたしはきっと、愛している」 優しく手を引いて、ファエルはカインを立ち上がらせる。 「きみの懺悔はわたしに向かうべきではないだろう? 面と向かって話してあげなよ」 ‧✧̣̥̇‧ 死刑場となった丘の上に降り立った途端、カインの視界に不気味に揺れる炎の塊が飛び込んできた。その中に黒々とした何かが包まれている。何も聞かずとも、それが弟の成れ果てであると分かった。 「アベル!」 カインは地に足をつけると同時に、炎に向かって走り出した。服に炎がまとわりつくのも構わず、焦げた身体に手を伸ばす。その時だった。 「……炎が、消えた?」 「わたしの力で消したんだよ。退いて、今からアベルの治療をする」 カインの身体を押しのけて、ファエルは横たわるアベルの傍に座った。もう顔の形も分からぬほど、人型の炭のようになってしまった彼を見ても、ファエルは嫌に冷静だった。冷静でいなければならなかった。 「皮膚の再生は問題なく出来ると思う。ただ……中身が正常に動くといいんだけれどね」 「お前の力で、治せるんじゃないのか?」 「生きている命を回復させることならばね。けれど、既に死を待つだけの命を引き戻すことは許されない。天使のわたしや、もしかすると神でさえも、世界の理には逆らえない」 アベルの上に手を翳すと、そこから柔い空色の光が滲み出る。光はアベルの身体を包み込み、黒く焦げた皮膚を元通りの艶やかな肌に変化させていった。しかし──。 まるで、ただ眠っているだけのように安らかな表情で横たわるアベル。その顔をそっと撫でて、ファエルはカインを振り返った。彼女の表情を目に入れたカインは思わず息を飲む。ファエルは、音も無く涙を流していたのだ。 「もう、駄目なのか」 「……ごめん」 ファエルの手から光が消える。身体の内部に干渉しようとした瞬間、手遅れなのだと分かってしまった。アベルの心臓は既に機能を失っていて、静寂に向かって歩みを進めてしまっていた。死という運命の前には、ファエルもカインも等しく無力だった。 「そんな……アベル、あぁ、暑かったろうに、苦しかっただろうに! どうして俺を告発したまま逃げ出さなかったんだ!」 カインは叫びながらアベルの肩を抱きしめて、慈しむように額同士を合わせた。白くなったアベルの頬に熱を持った雫が伝う。その時、ふと、カインの首元に息がかかった。 「兄さん?」 「アベル……!? ああ、良かった、まだ生きてる……!」 視点の定まらない目を、それでも微かに開いたアベルが、じっとカインのことを見つめている。その両目からも、流れ星のように一筋の涙が伝った。 「兄さん、ファエル、ごめんなさい。お願いだから、僕を庇わないで。僕は本当は、誰よりも卑怯な人間なんだ。優しく振舞って、無害を装っているだけの、残酷な狼だ。僕は、僕は悪魔に、魂を売ってしまった。醜い、生きていては、いけない……」 漏れ出た儚い後悔の言葉は、口にした端から消えてしまいそうなほど脆く揺れていた。カインはそれを離すまいと、アベルの呼吸の後に言葉を繋げる。 「違う! お前が悪魔に魂を売ったのなら、悪魔自身は俺なんだ。お前の気持ちを知っていたのに、踏みにじって、苦しませた。愛とは名ばかりの自分の欲の為だけに、ファエルにも辛い思いをさせた。本当に死ぬべきだったのは、きっと……」 「にいさん」 弱々しく、けれど確かに、アベルはカインの言葉を遮った。中をさ迷っていたはずの瞳に、一瞬だけ揺るぎない光が宿る。 「僕は、兄さんを、嫌いになれなかったよ。喧嘩をした日も、口を聞かなくなった時も、最後はこうして、抱きしめてくれたから。僕らはずっと、そうやって生きてきたでしょう」 アベルは一度、満足そうに呼吸をすると、ゆっくりと目を閉じた。二人で辿ってきた長い道のりを、過ぎ去った時間の全てを何と呼べば良いのか、今のカインになら分かる。遠い昔の記憶が、カインの心臓を強く揺さぶった。 ‧✧̣̥̇‧ カインの一番古い記憶は、冷たい冬の朝だ。目を覚ますと、隣で寝ていたはずの母の姿がなく、驚いたカインは大声で泣き喚いた。すると、隣の納屋からカインよりも大きな泣き声が聞こえてきた。たどたどしい足取りで納屋の扉を開けてみると、そこには血と汗に塗れた母と沢山の女衆、そして、おろしたての白布に巻かれた小さな彼がいた。 「カイン、あなた、兄さんになったのよ」 そっと腕に乗せられた彼は思いの外重たくて、でもあたたかくて、春のひなたのような匂いがした。どうしてかは分からないけれど、カインはその時、自分は彼を守るために生まれてきたのだと、そう思った。 カインはアベルが生まれた日の朝より以前の記憶を思い出すことが出来なかった。だからきっと、カインの生きる理由を連れてきてくれたのは他でもないアベルだったのだ。カインの人生はアベルの誕生とともに色づけられた。 ‧✧̣̥̇‧ 「俺も、お前と同じ気持ちだ。俺たちは互いに酷いことをしたし、裏切られもした。でも、それでも離れられなかった。俺はお前の兄さんだから。好きや嫌いでは片付けられなくなるくらい、傍にいたから。だから最後は戻ってきてしまうんだ」 アベルの伸ばした指が、カインの目元に触れる。その指は、涙を拭っているように見えた。 「初めてお前をこの腕に抱いた時から、俺は、お前を愛してる」 身体の芯から響いたカインの声は、アベルの最期の表情を、柔らかな陽だまりの笑顔に変えていく。そして、アベルの命の時は静かに音を止めた。 すると、まるでその時を待っていたかのように、魔法が溶けていくように、アベルの身体が端から灰に侵食されていった。本来ならば燃えて散るはずだった身体は、ファエルの力で少しの間留まっていただけに過ぎない。命が終われば、その身も運命の通りに果てる。 少しずつ実態を無くしていくアベルの身体を、それでもカインは一時も離すことはなかった。やがて、アベルの身体が風にさらわれ跡形も無くなった頃、山の稜線が白く滲み、眩い朝日が顔を覗かせた。夜明けがやってきたのだ。 「ファエル。アベルは天界へ行けるのか?」 「彼は羊たちの命を奪い、自らの罪を村の人たちに被せ見殺しにした。罪の重さは、計り知れないよ」 「……そうか」 ファエルは肯定も否定もしなかったが、カインには弟の行く末を察したのだろう。淡く染まる山肌から目を逸らし、代わりに真剣な眼差しでファエルを見つめた。 「ファエル、俺を罰してくれないか」 「神の許可も無いのに、故意に人間の命を奪うことなど出来ないよ。なにより、わたし自身が、そんなことはしたくない」 「ああ、分かってるよ。お前ならそう言うだろうな」 カインは愛おしげに目を細めて微笑むと、平静を装ったままのファエルの視界に、銀色に光る短刀を掲げてみせた。ファエルの瞳が一瞬にして大きく揺れ動く。 「ファエル、俺の魂をアベルと同じ所へ送ってくれ。例えそこが果ての無い暗闇でも、あいつと同じ罪を抱えていきたい」 醜い水音が響き、次いでカインの首元から、彼の深紅の髪によく似た色合いの液が溢れ出した。ファエルの喉元から、声にならない悲鳴が空気を突き破って飛び出した。 「カイン……!」 血溜まりに倒れ伏したカインは、ファエルが抱き起こした時にはもう動かなくなっていた。ようやく堪えたはずの涙が、またとめどなく溢れ出してくる。けれど、ファエルは躊躇わなかった。カインの最期の願いを叶えたくて、アベルを暗闇の中ひとりぼっちにさせたくなくて。だからファエルは、身を裂かれるような思いを抱えたまま、光に包まれた手のひらでカインの身体に触れた。 柔らかい肌の感触を覚えた途端、それはボロボロと崩れて形を失っていく。罪人の肉体を消滅させるのは、天使に課せられた役目のひとつだった。 そして夜が完全に空けてしまう頃、死刑場には一体の哀れな天使だけが残された。二つの穢れた魂は暗闇に葬られ、記憶の海に忘れ去られていくのだろう。 「それでも、わたしが憶えている。わたしだけは、憶えているよ」 昇りきった太陽に向かって、大きく手を翳す。吹き抜ける風を一身に受け、目を閉じ耳を澄ます。動き出す世界の狭間から、微かに彼らの声を聞いたような気がした。声は、こう言ったように、ファエルには思えた。 ただ一言、「愛してる」と。 「わたしもだよ」 ファエルの世界を幸福で満たしてくれた彼らに向けて。精一杯の笑顔で答えた。 「二人と出会えて、人間を愛することができて、幸せだった」 ‧✧̣̥̇‧ ホロンが口を噤むのと同時に、エクレシアの肩にずしりとした感覚が襲いかかった。見れば、涙で顔をぐちゃぐちゃにしたニネヴェが、幼子のようにしゃくりあげてエクレシアに抱きついている。 「どうしたの、ニネヴェ」 「だってだって~! こんな結末、あんまりにも悲しすぎるじゃないですかぁ」 「これは伝承だよ。つくり話、或いは誇張されている可能性だってある」 「でも、本当のことかもしれないでしょう? 」 うーっと息の震えを堪えながら、ニネヴェは訴えかけるように涙目を向けた。エクレシアは黙って肩を竦めると、ゆったりと彼女の頭を撫でてやる。すると、そんな二人の様子をAIが感知したのか、絶妙なタイミングでホロンの像が笑みを浮かべた。 『今晩、わたくしはカインとアベルと3番目の天使様に祈りを捧げて眠ることにいたします。未来の友も、ご一緒にいかがですか?』 「はいぃ! あたしもお祈りしますう!」 ホログラムにまで抱きつかんばかりの勢いで、ニネヴェはホロンの像にぐいっと顔を近づける。エクレシアはその光景を微笑ましそうに見つめた後、うってかわって真剣な顔つきになり聖典に視線を落とした。 「……こんな話は、聞いたことがない」 ぽつりと漏れ出た声は殆ど掠れ、ニネヴェの耳には届かなかった。 ─────˙˚ 𓆩 ✞ 𓆪 ˚˙────── 鉄の弾が 正義の証明 貫けば 英雄に近づいた その目を閉じて 触れてみれば 同じ形 同じ体温の悪魔 僕はダメで あいつはいいの? そこに壁があっただけなのに 生まれてしまった 運命嘆くな 僕らはみんな 自由なんだから 鳥のように 羽があれば どこへだって行けるけど 帰る場所が なければ きっとどこへも行けない ただただ生きるのは嫌だ 世界は残酷だ それでも君を愛すよ なにを犠牲にしても それでも君を守るよ 間違いだとしても 疑ったりしない 正しさとは 自分のこと 強く信じることだ ─────˙˚ 𓆩 ✞ 𓆪 ˚˙────── 🖤カイン cv.サラダ https://nana-music.com/users/1012660 ─────˙˚ 𓆩 ✞ 𓆪 ˚˙────── 前節 Ⅲ. 羊を殺めたのは誰だ? (楽曲: 🥂🖤🤍僕の戦争/神聖かまってちゃん) https://nana-music.com/sounds/06ce0c54 次章 第6部〖白銀聖歌隊と4番目の天使〗 次節 Ⅰ. 流れ着いた者 (楽曲: 🪼Utopiosphere/Mili) https://nana-music.com/sounds/06ce7ce4 #ロマルニア帝国の聖典より #萩伴奏 #進撃の巨人 #悪魔の子
