さとうきび畑
THE BOOM
さとうきび畑
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🎤≪歌旅日記≫🏃 【36】
◆訪問地
沖縄県中頭郡読谷村 『さとうきび畑』歌碑広場
沖縄県中頭郡読谷村 メロディビーチ
沖縄県中頭郡読谷村 Gala青い海
沖縄県中頭郡読谷村 世界遺産座喜味城跡ユンタンザミュージアム
沖縄県糸満市 摩文仁のさとうきび畑
今回のテーマは、「本楽曲の歌碑とその誕生のきっかけになった地を訪問し、読谷における沖縄戦を学んでから歌と動画と文章で表現する」です。
実は慰霊の日に合わせて急に決めた歌旅である。それはそれとして、とても勉強になったし良い体験ができたし、これまた奇跡の出逢いもあり、とても有意義な歌旅となったのであった。
≪本楽曲について≫🎶
アルバム『OKINAWA~ワタシノシマ~』に収録。
※故人である寺島尚彦は文化的偉人として敬称略とする。
まず、原曲について。
『さとうきび畑』の歌碑の説明によれば、沖縄戦から19年後の1964年6月に作詞作曲者の寺島尚彦が沖縄を訪れた際に、糸満の摩文仁のサトウキビ畑に来た時に受けた衝撃を曲にしたとのこと。
【以下、歌碑にある寺島尚彦の言葉を記載】
車から降りて土の道をどのくらい歩いただろうか、気がつくと私の背丈よりずっと高く伸びたサトウキビ畑の中に埋もれているのだ。熱い南国の陽ざしと抜けるように青い空。
その時だった、「あなたの歩いている土の下に、まだたくさんの戦没者が埋まったままになっています。」
天の声のように言葉が私に降りかかり、一瞬にして美しく広がっていた青空、太陽、緑の波うつサトウキビすべてがモノクロームと化し、私は立ちすくんだ。
轟然と吹き続ける風の音だけが耳を圧倒し、その中に戦没者たちの怒号と嗚咽を私は確かに聴いた。
【以上】
全戦没者数約20万人、非戦闘員の一般住民でさえ4万人近くが戦火に命を落としている。そして、沖縄戦の最終状況にて旧日本軍は南部に追い詰められ多くが死に、また一般住民においても集団自決が多数行われた。摩文仁の地では海への飛び込み自殺を含め数多くの死があった。
さてその上で、本楽曲の創作者・寺島尚彦が感じた「あなたの歩いている土の下に、まだたくさんの戦没者が埋まったままになっています」とはなんであろうか。
言葉だけを読むとサトウキビ畑の下に戦没者が埋められているような気がしてくる。しかし実際は、火炎放射などで焼かれる、海上戦艦や戦車の砲撃を受けて四肢が粉々になるか蒸発する、また手榴弾による集団自決により四肢破裂など、およそ人の形を留めていない肉塊とその燃えカスがこの地に散乱していたのである。
80年代までは集団自決の状況写真が載っている本が小学校の図書館にもあったものだ。髪や手、足、服があるのはわかるが、果たしてそれが何人分なのか、大人なのか、子供なのか、男なのか、女なのか、わからないほどにグチャグチャだった。いまはそんな記録写真も封印されたのだろう。
敗戦国の人々の肉塊や死体などはすぐに回収されず、埋葬もされず腐敗して、米軍が焼いてブルドーザーで土にした…という話を聞いたことがあるが、公的な文書ではちゃんと読んだことはないな…戦争展示会とかでは話が聞けそうだが。(その土を辺野古基地の埋め立てに使ったというのは心理的配慮に欠けていると批判されても止む無し)
そういった人の腐敗した血肉を土に混ぜた大地の上に立っているという事実に、寺島尚彦は慄いたのである。当時、本土から沖縄に行くにはパスポートが必要であり、予防接種や厳しい審査など、限られた者しか“入国”できなかった。ゆえに、寺島は沖縄で受けた衝撃を作品に残し、沖縄の現状を本土に伝えたいと本楽曲の創作を始めた。
しかし、完成まで2年を要したたとのことである。特徴的な「ざわわ」の表現に辿り着くまで1年半もかかり、66回も繰り返す構成となった。10分を越える歌である為にテレビやラジオで取り上げられる機会は少ないだろうと寺島自身も「流行ることを拒否した歌」と表現したが、発表の際にこの長さを変えることはしなかった。
後に森山良子が歌い、本土復帰前の歌声喫茶で広く歌われ、ちあきなおみが「みんなのうた」で歌い、その他多くの歌手が歌うようになった。そのうちの一つがTHE BOOMバージョンである。
宮沢氏は本楽曲について、以下のように語る。
「『さとうきび畑』を歌うと、サビの部分、地表では何もなかったようにサトウキビが揺れてるけども、地下では想像を絶するできごとがあったという部分から、『島唄』のBメロと同じ景色が見えるんだよね。(作者の寺島文彦は)俺みたいに沖縄の外から来た人で、ひめゆりとかああいう壕で感じたものを歌にしたと思うんだよね。ひめゆりで資料をいっぱい読んだあとに、外のサトウキビ畑で見た光景とか」
「なかなか歌いたい歌に巡り会えるというのは少ないんだけど、『さとうきび畑』は久しぶりに歌いたい歌だったね。2~3年前かな、新垣勉さんという沖縄の盲目のクラシックシンガーが歌っているのを偶然見て。歌っているシーンに、サトウキビ畑の風景がオーバーラップして、ガーンと衝撃を受けたんだね。」
どうやら宮沢氏はこの新垣勉さんが歌う本楽曲を聴いて、初めて知ったらしい(ちょっとびっくり)。そして、宮沢氏は本楽曲のアンサーソングとして『白百合の花が咲く頃』を書き上げ、新垣勉さんに楽曲提供。
ちなみ、本年度5月に開催された沖縄本土50周年記念の式典のレセプションにて、本楽曲を新垣勉さんが歌い上げた後に、那覇高校生と宮沢氏が『太陽アカラ波キララ』、平田大一さんと大城クラウディアさんと『シンカヌチャー』を歌っている。
さて、話を戻して、宮沢氏は本アルバムを製作するにあたり、沖縄の小学校に本楽曲のコーラスを募集した。数多くの応募の中から選ばれた具志川市立川崎小学校の生徒たちと、音楽室にて宮沢氏が指揮をしてレコーディングが行われた。
宮沢氏は「どうしても島の子どもたちと歌いたかった。戦争の悲しみをテーマにしたこの曲を、これから未来を作りだしていくみんなと歌ってみたかった」と本楽曲への意気込みを語っている。小学校の音楽室での宮沢氏の笑顔は優しく、本当に嬉しそうで喜びに満ちていたのが印象的だった。
本年2022年は『島唄』30周年ということもあり、宮沢氏は多くのメディアで『島唄』を語っており、『沖縄のことを聞かせてください』という書籍も発刊した。その著書の中で、宮沢氏は硫黄島で戦死した母方の祖父について語っている。
その祖父の遺骨が届いたと祖母が受け取ったところ、骨壺の中には砂しか入っていなかったという。仮に骨が入っていたとしても実際は誰のものかわからないものだろうと戦争の凄まじさを綴りまた、そのような悲劇は戦争をすれば誰しもに訪れるものであると語っている。
強国が隣国をメンツの為に蹂躙し、宮古島と台湾の間の海域を他国の公船が毎日、領海侵犯を行っている。ついには、戦争を起こしている国の軍艦が領海侵犯をした。石垣島にミサイル部隊を配備、沖縄本島においては有事の際に米軍の滑走路となる58号線が急ピッチで拡張された。沖縄にいるとそんな危機感が日常的に増しているのを感じる。
独裁国のミサイルはもう日本全土を射程圏内としているので、77年前のように中央から遠い地を生贄にして逃げ切ることは難しくなっている。「口約束はもう通用しない」時代についになってしまっているのに、次の流行りは何か、次の楽な金儲けは何かばかりを話題にして、空洞の自己価値を埋めて群れの中の安心感を得ようとするこの国の中央の態度にあって、今年の慰霊の日は何を示していくのだろうか。
「いつか誰かがやるだろう」「私じゃない私じゃないの」の最期は結局、「自分」でしかない。その「自分」すら放り投げようとしているならもう…。ならばせめて、いま住んでいる地を愛せるように。人と人とを「歌」と「文化」が繋いでくれると信じて。
≪歌旅について≫🏃
前回の『白雲の如く』に取り組んでる最中、kanakoさんより「今年の慰霊の日に何かやるの?」と問われた時にはすっかり忘れていて。というのも、今年に入ってから宮沢氏の活動が過去最高に激しく、特に5月は「6連宮(ロクレンキュウ)」という私の個人企画を立ち上げてそれに気を取られていて。
ちなみに、「6連宮」企画の内容は、唄方コンサート、沖縄本土復帰50年記念式典、宮沢氏トークショー&サイン会、『てぃんさぐぬ花』のアップ、県内の宮沢氏サイン巡り旅、みやんち豪遊で、おまけの7日目はオリオンビール工場に宮沢氷魚さんの活躍を見に行ったり、8日目は宮沢氏著書の『沖縄のことを聞かせてください』のインタビュー場所を巡ったり。8連宮だったなこりゃ。
その後、慰霊の日の1ヶ月前から本歌旅を開始。そして、とてもマズい事に気づく。サトウキビの旬や生育状況はどうなんだろう…。前々回の『てぃんさぐぬ花』で鳳仙花の旬を逃してしまい、最後まで鳳仙花に出会えなかったことを思い出して焦る。調べたところ、収穫時期は3月。あぁくそぉ、またやってしまった。しかし、じっとしてても仕方ない。
とにかく、5月のサトウキビの生育状況を確認すべく、下見も兼ねて梅雨の短い晴れ間を見つけて読谷村の『さとうきび畑』歌碑に出向く。到着時にはパラパラと雨が降り出していた。傘を差しながら、歌碑公園を散策する。もちろん、見渡す周りに人影はない。大きな歌碑の横に歌が流れる譜面ボックスがある。スイッチオンして歌が流れる中でプレ撮影開始。
『さとうきび畑』歌碑は赤土色で、全ての歌詞が刻まれている。その下にあるモニュメントは、線香立てのような音叉のような印象を受けた。歌碑の裏にはサトウキビ畑があり、その向こうには読谷の海が見える。
さて、そのサトウキビの生育状況は…うーん、ベビーサトウキビだな。MAXサトウキビの背丈の半分くらい。まぁでも、土しかない状況よりは良いだろう。「ざわわ」感はまだ弱いかな。梅雨の晴れ間を見つけたら、また来よう。その頃にはもう少し成長した「ざわわ」感をくれるかもしれない。
譜面ボックスから流れる歌が終わったら帰ろうと思ったが…やはり長い(苦笑)。なので、創作者の寺島尚彦の想いが綴られた歌碑説明板をじっくり読む。実のところ、この楽曲とこうして真剣に向き合うのは初めて。寺島尚彦の強い想いに心打たれる。そして、糸満の摩文仁のサトウキビ畑での体験がきっかけである事を知る。よし、ならば次は摩文仁だ。
それから一週間後、ようやく雨が降らずに雲間からわずかに青空が見える朝が来た。しかし、いまちょっと晴れていてもまたすぐ雨が降るはずだ。梅雨明けまで待っていては間に合わない。出たとこ勝負で摩文仁に向かう。
勢いで来た摩文仁であったが、平和祈念堂と平和祈念資料館、摩文仁の海が全て見渡せるサトウキビ畑を一発で発見。すぐに撮影開始。連日の雨もあってか、畑で作業をしている人もおらず、この広大な景色の中に人間は私一人。寺島尚彦があの日に見た光景を想起しつつ撮影を続けていると、すぐに雲が厚くなり色が濃くなってきた。
「あ、こりゃやばい」と撮影を切り上げて移動する。でもせっかく糸満に来たんだし…と、ひめゆり平和祈念資料館の前の土産屋の有名なサーターアンダギーを食す。かれこれ4年振りのこの味に舌鼓をしていると、いよいよ雨が…。
雨の降り出しから猛烈な勢いで嫌な予感がして、慌てて移動を開始する。糸満のこの地域は冠水が起きやすい。ほんの15分ですでにタイヤが1/3は水に浸かる道路が出来ている。ワイパーを最大にしてもフロントガラスからの視界は水中のよう。ヤバイヤバイと焦りつつ、安全運転を心がけながら水はけの良い高地を目指す。
無事に帰宅したが、この日はやはり記録的な豪雨となり、冠水で立ち往生する車があちこちに発生していた。私がアワアワと走った道路も後に通行止めになっていた。ほんのちょっとの判断の遅れで土砂災害に見舞われたり、車が浸かって故障したりするので油断は禁物である。
しかしその翌日、昨日の豪雨はなんだったの?というほどの快晴になる。天気予報では曇りだと言ってたから油断していた。この梅雨の中休みの絶好のロケーションを逃すまいと、読谷の『さとうきび畑』歌碑に向かっていたが、急に瀬長島に行くことを思いついて行き先変更。そしてそれが前回の『白雲の如く』の歌旅となったわけで。
そこから雨が2週間近く続く。沖縄の梅雨は亜熱帯の雨季であるのでそれは覚悟の上だが、徐々に気は焦る。ようやく梅雨の中休みが来たので、いよいよ『さとうきび畑』歌碑の本旅を完遂すべく読谷へ。
いざ読谷に到着すると、心配していたサトウキビがまぁまぁ育っていた。葉は大きくなり、梅雨の海風で心地よい「ざわわ」を奏でている。もちろん見渡す限りの無人。寺島尚彦が衝撃を受けたのもこんな6月の晴れ間だったのだろうなぁと実感。
余談だが、THE BOOMの本アルバムの際のスナップで、メンバーが佇んでいるサトウキビ畑の背丈もちょうどこの日の高さくらいだった。もしかしたら、6月という期間まで照準を合わせたのだろうか。行動の結果もさることながら道程の意味まで追求する宮沢氏なら、そこまでやるだろうなぁ。
納得いく撮影を終えたら、次は海沿いの観光施設のGala青い海へ向かう。
ここにあるオーシャンズピザがお気に入りだが、沖縄を離れたりコロナ禍もあってここ数年行けてなかったのでこの機会に楽しみたく。そして、ここからの素晴らしい海を、改めて本楽曲の世界観と照らし合わせながら堪能したいと計画していた。その後は「読谷の戦争」という展示会がある場所の情報を入手していたのでそこを訪れて、戦争学習をしてから動画製作と歌入れをする段取りを組んでいた。
その道すがら、Gala青い海の入口手前で、背丈の高いサトウキビ畑を見つけた。サトウキビは全てを収穫するわけでなく、一部を残して次の種に備えることもあるらしい。とりあえずそれも動画に収めておくかと立ち止まったところ、セミが元気よく鳴いていて「夏が来るなぁ」と聴き入っていた。
ふと、足元を見ると、水中ゴーグルが落ちている。その先にはGala青い海の看板。さらにその先に生い茂る木々によるトンネルのような降り道を見つけた。その先にキラキラと光りが見えるので察しがついて、もしかしたら素敵な出逢いがあるかもしれないと撮影しながら降りて行った。すると、まったくの無人の絶景ビーチに辿り着いた。
どうやらそこはメロディビーチというらしい。砂浜の半分くらいが私有地で、サンゴ礁の養殖場でもある。白い砂浜が眩しいが、それ以上に海岸の岩場にある大量のアーサのグリーンが鮮やかである。そして、たまたま干潮時だったので、サンゴ礁の浅瀬があぁ~あぁ~美しい。こんなに美しいのに、360°私しか人間はいない。
ちょっと覗くだけだったのに、あとの予定を忘れてがっつりとメロディビーチを堪能する。人口的に切り取られた岩場のくぼみにたくさんの小魚がいる。その潮溜まりをハゼが飛び移る。鳥が水面をユラユラと低空飛行している。あまり人が立ち入らないのか、ここにいる生命が伸び伸びしていると感じる。波の音、潮溜まりから流れる水音、鳥の声、セミの鳴き声、それだけが響いていて南国の楽園であった。
しかし、その心地よい音の海に、プロペラの轟音が鳴り響く。米軍の戦闘ヘリが飛んできたのである。あぁそうか米軍基地が近いからそこから来たのか…と急な現実感とこの楽園のコントラストに残念な気持ちになったが、それと同時に「これだよ❗これこれこれ❗」と不意に訪れた戦争と平和のコントラストに歓喜した。
とにかくいまこの時を逃さず、欲しい画を撮ろうと岩崖の影に移動して耐久撮影を行うことに。10分置きくらいに戦闘機が頭上を通過し、戦闘ヘリが目の前を飛ぶ。滑走路が近くなので、飛行高度も低くよく見える。納得いく撮影ができた時にはもう2時間くらい経っていた。水分をまったく取っていなかったのでフラフラしてくる。
体調を整えるべく、ようやくGala青い海へ。もうランチタイムも過ぎたからオーシャンズピザは入れないかな~と思ったら、なんと時間区切り無しとのことで念願の入店。大好物のブルーチーズサラダを堪能し、読谷の乗馬も見れたり、とても良い時間を過ごした。
その後、大河ドラマ『琉球の風』の三重城セットと映画『てぃだかんかん~海とサンゴと小さな奇跡~』の元となったサンゴの養殖場を望む絶景より、撮影開始。メロディビーチへの寄り道があったからこそ絶好の位置の太陽を撮り収めきれて良かった。そしてその日の旅は終了、戦争学習は後日に。
その2日後、雨降りの中、再び読谷へ。「読谷の戦争」展示は世界遺産座喜味城跡ユンタンザミュージアムで開催されているようだ。
地元ラジオ局が館内ロビーで収録をしている。『南の島のオバーと僕』で有名な大田吉子さんが大事に保管していた「食糧と引き換えに渡された着物」が展示されていた。そして今月、その元々の持ち主が見つかったのである。とても感動的な出来事である。そして、その着物が80年前のものとは思えないほどに美しい。島人ぬ宝であるチムグクルを感じた。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/rbc/64987
さて、求めていた戦争展示であったが私が事前に入手していたものとは違ってやや混乱はした。しかし、読谷の50年の歩み展や、読谷の戦争と戦後の展示はとても興味深く考えさせられるものがあった。かつて読谷に核ミサイルが配備され、それに対して抗議活動をした記録もこうしてなかなか知りえないものだった。
そして最もショックだったのは、米軍車両に轢かれた幼女の写真と記録。治外法権にて、米兵が幼女の亡骸を取り囲んでいて、沖縄の警察が近寄る事ができない写真。堪り兼ねて、オバーがシャツだけでも掛けようと立ち寄る写真など。現代のメディアでは流せない残酷な写真と記録を見れるのは展示会ならではかと。
その後は、雨の中で私独占の座喜味城跡を堪能して、旅を終えた。私が元々見たかった展示は来月の予定のようである。まぁそれはそれとして、急に思い立ったとはいえ本楽曲を表現するにあたっての最高の経験と学習ができて、大納得の旅であった。
≪動画について≫🎥
イントロ部の歌碑公園の空は逆再生かつスロー再生をしたので、ムーブノイズが出てビクッと止まる箇所があるのは残念である。何度修正しても改善されないからやむなく採用。
Aメロは晴れた日の歌碑の裏のサトウキビ畑。程よい「ざわわ」感にて、風の具合がちょうど良いように見えるがスロー再生である。
次に雨の日の歌碑の動画の使える部分を切って繋ぐ。あえて雨の日の歌碑で構成したのは悲劇の象徴として、雨=涙という表現である。そして雨雲を見上げて「体験はしていないが自身の人生に大きな悲しみを与えた過去の出来事」に意識を飛ばすイメージ。ここまでの動画の繋ぎは透明で、過去の悲劇に想いを馳せる展開はホワイトを使用。
サビは2番にて、読谷の海と米軍の戦闘ヘリから。戦闘ヘリの撮影は最後の方で海の水平が傾いたのはちょっと残念だが、それでもこの構図を収められた奇跡に感謝する。曲調に合わせてスロー再生も過去の悲劇というイメージにマッチしている。
そして、読谷の海を焼く「夏の陽射し」の太陽。「夏の陽射し」の太陽は曲とのタイミングがバッチリ合っていて良かった。動画切替エフェクトのフラッシュがバッチリ合って感動。さらに、太陽などの撮影で続発するカメラの反射現象のゴーストがまさに、この楽曲によって鎮められ御霊のようである。我ながら凄い表現になった。
最後は摩文仁のサトウキビ畑。77年前はこの光景が死体や肉片だらけだったのかと思うと緊張感が高まる。「風が通り抜けるだけ」の部分は固定動画をモーションエフェクトを駆使して、後ろに引いて勢いを付けて通り抜けるように演出。「だけ~」の切替と開放の演出はなかなか上手くいった。何度か演出を修正したが、このテイクで落ち着いた。
歌旅開始当初はサトウキビの生育状況を心配したりしたが、創作者の寺島尚彦がこの楽曲を製作するきっかけだったのが6月のサトウキビ畑であった事が学んでいく中でわかり、このサトウキビで大正解であったのでした。納得。
≪歌入れについて≫🎤
もう20年も歌ってきたからと高を括っていたが、いざ真剣に取り組むとやはりそうもいかず。「ざわわ」に宮沢節を入れるのを意識しすぎると「ざ~わンわ~」になりがちで、腹から吐く息をそのまま通す歌い方で対処。とにかく力を抜かないと変なアクセントが入ってしまう。最初の「ざわわ~」だけちょっと不安定かな。
「むかし海のむこう」の「むこう」については読谷の海と青空をイメージして鼻先に柔らかく抜けるイメージで、「から」の着地をしっかり宮沢節。「夏の陽射し~」については、当初は力を込めてビブラートを効かせていたが、kanakoさんからの歌唱指導がありピアノの低音に添うよう意識してビブラートはあまり効かせずフワッと浮き上がるように歌った。
そして一番の聴かせ所の最期の「風が通り抜けるだけ」の溜め歌唱。「抜ける」の「ぬ」の抉るような落とし方を意識しつつ、最後の「だァけ~」のタイミングを身体に刻み込む。
実はkanakoさんの伴奏だと「だけ」の所の休符からの第一音がコンマ数秒くらい早い。とはいえ、それは伴奏全体の完成度から比較しても特に問題はなく、原曲が「け」の後からピアノの音色が再開されるところを同時に歌うことでベストタイミングを獲得できた。宮沢氏歌唱の原曲よりはまだまだあっさりめだが、これにて納得。
素敵な伴奏にて歌わせて頂いたkanakoさん、ありがとうございました。
急な提案にも関わらず早急に対応して頂き、本当に感謝しています。「ただ弾く」のではなく目指すべき表現に真摯に向き合うからこその情感豊かな美しい旋律で。鎮魂の意を込めて、祈りを込めて、その想いが伝わり、歌う側としても気持ちを上げられました。
≪最後に≫🌿🌿🌿🪖💣🏝️☀️
寺島尚彦はその本楽曲の創作のきっかけとなった60年代の沖縄訪問から2度目に沖縄を訪れるまで31年も間があったらしい。「沖縄戦を知らない自分が書いた歌を沖縄の人たちがどのように受け止めているのか」と不安に近い後ろめたさがあったとのこと。その同じ不安を、宮沢氏も同じように著書『沖縄のことを聞かせてください』で語っている。
そして、寺島と宮沢氏においてそれぞれ別の30年という歳月を経て偉大な作曲者と沖縄の絆は深まり、それは沖縄を愛する人々の心を繋ぐ歌となった。そしてその想いは、寺島尚彦の次女でソプラノ歌手の寺島夕紗子さんが『さとうきび畑』を歌い継ぎ、宮沢氏の長男で俳優の宮沢氷魚さんが朝ドラ『ちむどんどん』で沖縄を愛する青年・青柳和彦を演じることで引き継いでいる。
この寺島尚彦と宮沢和史の沖縄への文化的貢献とその生き様の類似性は表立って語られることはないが、沖縄の文化とアイデンティティの復興を調べていけば気づく人も多いと思う。私見として、その確信であるのが、朝ドラ『ちむどんどん』の登場人物の民族学者の青柳文彦とその息子で新聞記者の青柳和彦の存在である。
青柳文彦 青柳和彦
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寺島尚彦 宮沢和史
名前がもうアナグラムw。そして、劇中での青柳和彦と和彦の沖縄に対する想いはまさに、寺島と宮沢氏の想いそのものである。暗に盛り込まれたその要素をどう昇華していくのか、『ちむどんどん』の今後の展開に注目である。
77年目の慰霊の日に添えて。
※トップ画像は、『さとうきび畑』の歌碑説明板。
※本日の琉球ソングブックにて本楽曲が放送された。なんという素晴らしい“縁”と“機”。
#THEBOOM #宮沢和史 #さとうきび畑 #OKINAWAWワタシノシマ #寺島尚彦 #メロディビーチ #Gala青い海 #ユンタンザミュージアム #摩文仁の丘 #沖縄慰霊の日 #琉ソン #ちむどんどん #沖縄に恋した宮沢和史祭り
コメント
4件
- ニヤ☆ゆっくり聴きnanaさせて下さい〜💦☆
- kanakoニヤさん、いつもながら素晴らしく歌って下さりありがとう😊 そうそう、この曲の冒頭部の右手は「涙雨がシトシト…」のイメージを持って弾いたところもあるので、初めて動画をみた時、「ここの雨がすごく良い雰囲気だなぁ」と感じたのを覚えています。 そしてやはり、沖縄の風景そのものを動画に取り入れてつくられているのでサウンドがより重みのある音に聴こえます。 その地に向かい、旅をして作品を作ることの意義を今回はより深く感じることができました。 動画が、サウンドを引き立たせてくれてて…本当に感激でした🌱🍀🌱
- ニヤ☆ゆっくり聴きnanaさせて下さい〜💦☆
- ぱっかん♡?