海よ
中島みゆき/キャプション:斜庭
海よ
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#七色連歌 #白波のさざめき
小波水無子:上野
「水無子」
懐かしい声が私を呼んだ気がした。振り返れば、あの人は優しく私に微笑みかけていた。
そうして、思い出す。ああ、今日はデートだった。とは言っても、何もないこのあたりの集落でデートなんてたかが知れている。いつもの通り、お買い物をして、砂浜を歩くのだ。なんだか味気ない。けれど、私はそんな時間が大好きだった。だって、海を見るあの人の目は、子どものようにきらきらと輝いている。とっても可愛らしいその姿は、私のお気に入り。
「水無子、僕はね。いつか漁に出て、大きな獲物を捕まえるのが夢なんだよ。それはもう、僕なんかよりもずっと大きい、そんな奴」
何度か聞いたその夢を、あの人はまた語る。もうきっと、この海だってその夢を覚えていることだろう。けれど、あの人があんまりにも嬉しそうに語るものだから私も、「待ってるね」なんて笑って返事する。そんな、ありふれた日常。こんな日々が永遠に続けばいい。そう、思ってあの人を見た。あの人も、同じことを思ったのだろうか、不意に目が合って、笑い合う。幸せ。そうして、ゆっくりと顔が近付いて、くちびるが重なった。幸せだ。
瞬間。
どろり、とあの人が溶けた。まるで氷が水になるように、水の中に絵の具が広がるように。どろり、どろり。私は恐怖に苛まれていた。でも、どうしてだか次第にそれを受け入れて、まだ溶けていないあの人の頬に手を添えた。
「水無子」
優しい声が耳をなぞる。ああ、また行ってしまう。ねえ、あなた。必ず、必ず帰ってきてね。約束よ。
***
たったひとりでぼんやりと砂浜を歩いていた。裸足のままだけれど、異物のないこの砂浜では足は痛くならない。いつもの定位置に着いて腰を下ろす。ざぶん、と波の音が耳を劈いた。
「水無子」
波に混じって聞こえたその声は、幻聴だろうか。ああ、もし。もし、私がこのまま海に沈んでゆけば、あの人に会えるのだろうか。考えて、ふるふると首を振る。
久しぶりに見たあの夢のせいでナーバスなのだ。けれど、諦めちゃいけない。私は、私だけは、あの人を待ち続けなくてはいけない。
私はそっとそれを海に浸す。紙でできた小舟だった。ゆらゆらと揺れた小舟は、いつしか見えなくなった。ツゥと頬を伝う涙が、夜風にさらわれて、海に溶ける。
ああ、海よ。小舟をどうか、あの人の元へ。
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