
紅郎リテイク
👹よぉ嬢ちゃん、夜逃げの準備は順調かよ。 (それは、予想外の来客だった。 物音ひとつ立てることなく、いつの間にか塀の上に腰掛けていたその姿に、思わず声が出そうになる) 👹そんなに怯えるこたぁねェだろ。 こうやって夜でも身軽に動くっつぅのが、俺みたいな使いっ走りの生き方なんでね。悪く思わねェでくれや。 (夜闇の中、あらためて姿を確認すれば、それは、見慣れた男の姿だった。 とある武家の後継に遣える奉公人。 ……言うなれば、『良家のご子息の召使い』といったところか。 彼の主人では私ではないのだが、主人と同じように、以前から私にも世話を焼いてくれていた存在だ。 馴染みのある顔に安堵するのもつかの間、心のどこかで、『あの人ではない』と落胆を覚えてしまったのも、愚かしいながらまた確かだった) 👹こんな戦乱の世の中だ。あんたみたいな身分の娘がこれ見よがしに街に残ってちゃア、目立っちまってしょうがねぇ。 命を守るために逃げるってのも、正しい選択なんだと思うぜ。 👹俺だって止めるつもりはねェ。ただ、預かりもんくらいは受け取ってもらわねェとな。 (そう言って、彼は懐から一通の文を取り出す。 何度もなぞった、見覚えのある字。 それが『あの人』のものだと確信するのに、そう時間はかからなかった) 👹ほらよ。あの坊ちゃん、あんたの変化に真っ先に気づいて、一筆したためてたみたいだぜ。 (……気付かれないようにことを進めていたのに、やはりあの人には気付かれていたようだ。 そう思うと、途端に直接別れを告げなかったことへの罪悪感に襲われた。 受け取るのを躊躇っていると、彼ははらりとその文を開き、柔らかに口遊んでみせる) 👹「今はただ 思ひ絶えなんとばかりを 人づてならで いふよしもがな」 👹……はは、こりゃ皮肉なもんだ。 あいつも相当に、ひと目でも嬢ちゃんに会いたがってたもんなァ。 これに返事もしないでっていうのは、あまりに不義理なんじゃねぇか? (……『今となっては、この思いを諦めてしまおうということだけを、あなたに直接に会って、伝えたいだけなのに』 残されていたのは、そんな悲痛で切実な、たったひとつの願い。 崩れ落ちそうになる体も、心も、目の前の彼には見せたくなかった。 声の震えを抑えながら、返事を書く旨を簡潔に伝える) 👹応よ。そんなら、書き終わったらこの木にでも括り付けといてくれや。絶対、俺が届けてやるからよ。 (私の様子を知ってか知らずか、彼は小さく微笑んだ。 そして文を今度こそ私に手渡し、また夜闇に消えて行こうとする。 しかし、ほんの一瞬、躊躇うように動きを止めると、こちらに向き直って小さく言った) 👹……嬢ちゃんが行っちまう前に、こうして顔を見られて良かった。 あんたなら首尾よく逃げ切れるだろうよ。 嬢ちゃんには、優秀な家来も、あいつからの思いもついてる。 👹それに、いざとなりゃ俺だって……んや、これはちょっとばかし余計だな。 👹ここにいる奴らはどいつもこいつも、あんた無事を祈ってるって話だ。そのために体だって張る。 だから嬢ちゃんはテメェの心配だけしてやがれ。 (私とあの人がまだ幼い頃から、本物の兄のように世話を焼いてくれていた彼。 弱みなど一切見せたことのない彼の背中は、今の今まで、本当に大きなものだったと、こんなときに気づいてしまった。 彼はなぜ、主人でもない私にまで、ここまで尽くしてくれたのだろう。 彼はなぜ、立ち去ろうとする寸前に、あんな切ない顔をしていたのだろう。 彼は、なぜ) 👹そんじゃ、どっかでまた会おうや。 そんときは、今度こそ文だけじゃなくて、そのツラあいつに拝ませてやるんだな。 (静止の言葉すら出ない私を置いて、風のように姿を消した彼に、私は手を振ることすら叶わない。 これまでの彼の言葉の意味を、確かめきれなどしないまま。 嗚呼、まもなく夜が更ける。 誰も知らない、遠い地へと身を隠してしまうその時が、刻一刻と迫っていた)
